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 大災害のときの常識集 > ガスが使えない > LPガス(プロパンガス)

LPGガス漏れをめぐる事態

 神戸市東灘区のLPGガス漏れに伴う避難勧告では、住民への指示が十分行き渡らず、避難所が混乱するとともに救出活動などにも影響がありました。詳細は、以下のとおりです。

  • 18日午前2時、周囲のガス濃度が安全値を超えた。午前6時、市災害対策本部は東灘区のほぼ西半分と六甲アイランドの住民に避難勧告を発令。対象は約7万人。しかし、東灘署には避難範囲、発令時間など具体的な情報は入っていなかった。「ガスが漏れて爆発するとラジオで言っていた」「どこまで逃げたらええんや」東灘署には電話が殺到。受付は避難者でごったがえした。発令の30分後、御影公会堂に人があふれはじめた。「どこまでが安全なんや」。区職員に避難住民が詰め寄った。
  • 震災時、聴覚障害者は被害状況や避難勧告、救援などの情報が得られず、行動できなかったり、遅れたりした。
  • 兵庫県立御影高等学校(神戸市東灘区):避難勧告の情報は、市対策本部からではなく携帯ラジオから収集した。避難勧告によって避難者を別の避難所に移動させる旨を市対策本部に伝達したが、勧告解除の確実な情報もなかった。市に夕方問い合わせたところ、すでに避難勧告が解除されていた。
  • 2日目に付近で可燃ガスが漏洩し、一帯に避難勧告が発令された。しかし、対象エリアがはっきりしないので困った。前を通る消防職員に聞いても、「ここも範囲に含まれる」と答える人もいれば、別の消防職員は「ここは含まれない」と答えた。
  • 報道機関への連絡は、兵庫県警と市災害対策本部に頼んだ。パトカーやヘリコプター、東灘消防署の広報車でも直接、住民に伝えることにした。しかし、情報は錯綜(さくそう)する。
  • この避難勧告によって、同地域内で行われていた救出活動・応急対策活動の中にはやむを得ず中断したところもあった。
  • 周辺住民7万人が避難先から帰宅したあとも漏出が続き、6日間にわたって誘爆発の危機が続いていたことが17日、明らかになった。爆発すれば、タンクから半径20キロ以内の市街地が火の海に包まれる恐れがあったとの指摘もあり、住民らは何も知らされないまま危険と背中合わせで生活していた。
  • 1月18日夕方には隣接の安全なタンクへのLPG移送が開始され18時30分には安定した移送状態になったこと、神戸市消防局や応援都市・応援事業所の自衛消防隊による3点セット(大型化学消防車、大型高所放水車、泡原液搬送車)が4組そろって警備体制が整備されたことなどがあげられている。これにより、同日18時30分、一部の避難勧告が解除され、最終的には22日14時30分に全面解除となった。
  • 神戸・六甲アイランドに住む神戸大学工学部助教授の大西一嘉さんは、島の住民に「1月18日」の危険情報がどう伝わったか、1996年末に調査した。自ら“情報過疎”の不安を実感した体験も動機になった。震災二日目、避難勧告に従った人は回答者の94%にもなる。高層住宅の館内放送で住民が一斉に移動した。ただし、車の所有者の47%が車を使った。大西さんは「車がガス爆発の着火源になる危険性は認識されていなかった」と見る。
  • 「外で夜を迎えるのはあまりに過酷。早く解除したかった」。だが、安全と判断する根拠がなかった。結局、LPGの流れが安定した同6時半、当時の東灘区長は「移送の条件が整った」として「いったん解除」を決めた。
     移送作業には数日かかる。漏れが止まったわけでもない。しかし、住民には「解除」と伝えられた。複数のラジオ局が「移し替えが終わった」と誤って放送した。・・・(中略)・・・22日午前6時、ついに移送完了。その後、漏れていた元弁をテープで縛った。午後2時半、神戸市災害対策本部は、避難勧告の「完全解除」を発表した。しかし、当時の東灘区長は「私は18日に解除した。その後、本当に状況が悪化したら避難命令を出すつもりだった。22日の解除は知らない」と語る。
  • 避難勧告によって、避難先からの再避難などが必要となった。避難者数が一挙に倍増した避難所もあり、食料物資の確保などのために避難者数を把握することも難しい状況となった。

主な参考資料 :
「阪神・淡路大震災教訓情報資料集」 
  内閣府・(財)阪神・淡路大震災記念協会(一部編集)   
 ※ 上記、資料に記載されている参考文献の一覧はこちらから >>

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